学校の国語は辛かった

何が辛かったかというと、全員に同じ理解を求めること。

小学生の頃は単に「おもしろくない」で済んでいましたが、中学生以降は「どうして、そんなに全員を同じ型にはめようとするんだ!」と反発。意図的に“正解”でない考えを発表したり、無視したり(先生、ごめんなさい)。

評論文ならまだ分かります。正しい日本語で、且つ論理的に書かれていれば、一つの決まった読み方になるはずです。そのテーマ設定や結論に対し賛成するか、反対するかは別として、その著者が言わんとする内容・筋道にいろいろな解釈は存在しません(存在するなら、それは書き方が悪い)。

しかし、小説や物語文はいろいろな感じ方があってよいのではないでしょうか。「登場人物のある言動がよいか悪いか、考え方や立場によって意見が異なって当然だ。」「(長い文章の中で)どの部分がおもしろいかなんて、読む側の自由だぞ。」「思想統制はやめてくれ!」そう感じていました。

学校の国語ですので、全員がある程度以上の読解力をつけられるように(=同じ理解に到達できるように)という配慮から授業ができている…今となっては納得のいく部分もあるのですが、血気盛んな十代の頃はそのような理性はありませんでした(そこまで賢くありませんでした、笑)。

スタディクラブでは、星新一のショート・ショートを使うなどして文章読解をやることがあります。どこがおもしろいと感じたかを発表してもらいますが、人と違った視点を提示する意見には称賛の言葉を送ります(単に奇をてらっただけのものはダメで、説明が必要です)。

もちろん、○(マル)がもらえる指導もきっちりやっていますので、ご安心を。テストはテストでモードを切り替えます。状況に応じて、「学校や受験の国語はこういう仕組みになっているんだよ」「自分がどう思うかではなく、100人中98人以上がどう考えるかを求められてるんだね」などと説明を付け加えます。

※時々著名な文筆家が、自分の書いた文章を題材にした長文読解の問題を解いて、正解できない問題があったなどと書いていますが、それとこれは別物であるということが実によく分かるエピソードですね。

 

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